※文中敬称略
服部天皇とは、山形県の事業家・服部敬雄(はっとり よしお、1899年~1991年)の通称である。
また、これから転じて昭和期から平成初期の山形県の民放局で流れていた懐かCM動画に貼られるタグとしても使用されている。
・概要
服部敬雄は地元新聞の山形新聞、山形民放局の山形放送(以降YBC)や山形テレビ(以降YTS)、バス会社の山形交通(現・山交バス)の社長を歴任。山形の地元メディアを中心に強大な権力を持っていた。山形県政にも影響力を持っていたとされ、山形県知事選や県議選でもその影響力が大きかった。彼の持つ強大な権力と影響力から「服部天皇」「山形の首領」と呼ばれていた。
服部天皇が権力を握っていた当時、山形県には民放テレビ局がYBCとYTSの2局しか無く、両局に強い影響力を持っていた服部の意向は番組編成にも色濃く出ていた。
藤子不二雄原作のアニメ『忍者ハットリくん』を「タイトルが気に食わない」と言って打ち切りにし、深夜番組『11PM』を「内容が気に食わない」ということで途中打ち切りにしたりと、視聴者を無視し個人の意向で番組編成に介入することも行われた。
また、県外資本の企業がなかなか進出できなかった影には服部天皇の力が働いたともされ、全国資本のコンビニチェーン(セブンイレブンやローソンなど)やマクドナルドやロッテリアなどのファストフードチェーンが山形県内に初出店をしたのも服部の亡くなった後、1993年と東北最後発であった。服部は1991年に逝去。この時には「赤飯を炊いて喜んだ家庭があった」という噂が出た。
・山形マスコミに与えた影響
YBCとYTSのいびつなネット体制は開局時にYBCが日本テレビ系列を、YTSがフジテレビ系列をそれぞれ選択したのも服部の強い意向が反映されていると言われている。特に、YTSは当初テレビ朝日系列での開局を予定をしていたが、服部がフジサンケイグループ設立者の一人である鹿内信隆と懇意にしていたのが決め手となって「鶴の一声」でフジテレビ系列として開局。朝日新聞とテレビ朝日を支持する株主が多かったため、服部と一部株主の間で対立が発生した。
1975年、服部の意向に反対する株主を中心とし、フジテレビとテレビ朝日とのクロスネット化を行った。服部はこれに対抗するため、1980年にYBCを日本テレビ系とテレビ朝日系のクロスネット局とし、YTSは原則フジテレビの単独ネット局にした。これが原因となって、番組編成にいびつな番組ネット体制が発生するようになる。
代表的なのがこのネットチェンジが行われた1980年から1993年までの日曜午後7時~午後9時までの両局の変則的な番組編成である。日テレ・テレ朝のクロスネット局となったYBCは、日曜午後7時〜午後9時の時間帯をテレビ朝日系の番組の同時ネットに移行した。
一方、フジとテレ朝のクロスネット局からフジテレビ系単独ネット局になったYTSは、この時間帯はYBCからあぶれた日本テレビの番組の同時ネットへ移行した。これにともない、YTSが本来ならば放送するはずのフジテレビの番組は遅れ放送となった。この様に、YTSの服部と一部株主の対立のあおりを、山形県民は結果的に被ることとなった。
・後発局の参入反対
山形新聞・YBC・YTSと、山形県の新聞・ラジオ・テレビを牛耳ることによって権力を維持してきた服部は、バブル期に開局した後発局であるTBS系のテレビユー山形(以下TUY)とJFN系列のFM山形の開局に猛反対した。しかし両局の開局は阻止できなかった。この事件が後述のYTSの多角経営へと走らせるきっかけとなり、後の前代未聞のYTSネットチェンジ事件へとつながることとなる。
・YTSネットチェンジ事件
TUYとFM山形の開局により服部天皇の山形マスコミの独占体制が崩れたバブル期、YTSはハリウッド映画への出資、製薬会社の設立、金貨発行、ビデオソフト製作など次々と新規事業に手を出す多角経営を行った。しかしこれらの事業が軒並み失敗。借金が膨らみ経営の悪化したYTSは、テレビ朝日にこれらの借金の債務保証をしてもらう代わりにテレビ朝日系列へネットチェンジする決断を下すこととなる。ちょうどこの問題が表面化する手前の1991年に服部が逝去したため足枷が取れた格好となり、1992年9月にANN加盟を申請。フジテレビの猛反発を押し切る形で、1993年4月1日より現在のテレビ朝日系列単独ネット局へ移行した。
ネットチェンジした1993年当時、フジテレビは人気番組を数多く抱える人気局であった一方、テレビ朝日は「ニュースステーション」や「ドラえもん」などの番組以外に目ぼしい番組がないという弱小局であった。フジテレビや一般視聴者の意向を完全に無視したこのネットチェンジは当然反感を買い、YTSは視聴率が一気に低迷。一部スポンサーの撤退や経営悪化を招くこととなった。
山形県のネット局を失ったフジテレビは急遽新局の開局へ動くこととなり、1997年にさくらんぼテレビを開局させた。なお、このYTSネットチェンジと共に、YBCも日本テレビ系列単独ネット局に復帰している。
・功績
1970年代から1990年代初期の山形マスコミを混乱に陥らせた元凶となった服部であるが、山形空港の開設や山形大学医学部設置といった功績もある。『西部警察』の山形ロケ編の実現も服部の力が成せたものである。地方ロケ編の中でも今でも語り継がれる程の派手さで知られ、静岡ロケ編で抗議を受けた「市街地にヘリコプターを着陸させる」という演出を堂々とやったり、酒田市ロケで酒田市消防本部が全面協力が行われた。
この山形ロケの際、制作も担当した石原裕次郎が服部に頭を下げ全面協力を依頼したとされ、全11回行われた地方ロケ編でも山形ロケ編は「傑作」との呼ばれが高い。
・補足
ユニコーンのメンバーで、キーボード担当・阿部義晴は山形県出身のため、服部天皇を皮肉った曲が収録されたアルバム『服部』を1989年にリリースした。